「ア」という字も見たくない
アトピーで何がつらいかというと、それが肌という体の外側に出る病気だということです。内臓を患ったことのないわたしが言ってはいけないことだとは思うのですが、自分の苦しみに溺れていたときに考えたことなので、どうかお許しいただければと思います。
わたしは、「内臓がどれほど傷んでもかまわない。それで死んでもかまわない。でも、見かけだけはわたしのまま死にたい。このめちゃくちゃなひどい顔のままでお棺に入りたくない」と思っていました。毎日死にたいと思っていたくせに、死ぬなら肌がきれいになってから…と思っていたのです。笑ってしまいますね。だって、肌がきれいになったら、死ぬ必要がないのですもの(笑)。
わたしのひどい見かけは、わたしの心をせまくし、頑なにしました。そのうえ被害妄想を抱くのです。「あの人がわたしのことをジロジロ見てた」「きっと“アトピーだ”って思ったんだ…」
自分で自分を憐れむのはいいくせに、人に憐れまれるのがものすごくいやだった。「かわいそうに」という目で見られることが何よりもつらかったのです。
いまは、わかります。誰もわたしのことなんて見ていない。ただ、わたしがちょっと赤い顔をしているから、ふつうとは違う肌をしているから、一瞬目にとまっただけです。外国の人がいると、ついちょっと見てしまうのと同じこと。見る人に悪気はないのです。
そのころのわたしは、看板などで「ア」というカタカナを見るのさえイヤでした。「ア」のうしろには、「トピー」と続いているに違いない。きっと薬局か何かの「アトピー性皮膚炎に効く◯◯」など、そんな類の宣伝なんだろう。そんなものでこの病気が治るものか。そんな単純なものじゃない。そんなことも知らずにこれほど苦しんでいる人に効きもしないものを売ろうとするなんて…などと、心のなかで、言いがかりも甚だしい悪態をついていました。わたしの心は、傷んだ肌によって、それほど病んでしまっていたのです。
アトピーになると、肌も敏感になり、それと一緒に心も敏感になります。心につまみがついていて、それを回せば鈍感になれる機能があったなら、どんなにいいでしょう。こんなにつらい思いをしているのだから、心が病んでいても当然、人のことを悪く思っても当然、そんなふうに決めつけて、心を尖らせて生きていました。
あのときのことを考えると、もう少し心を柔らかくしておければよかったなあ、と思うのですが、でも、やはりそれは無理だったのではないか、とも思います。生きているのが精一杯のときに、自分の心の状態まで整えることはできなかった……。
治ってから思うのは、誰しもほかの人にはわからない痛みを抱えている、ということ。外見は元気いっぱいでも、もしかしたら大きな悩みを持っていたり、外からは見えない病気と闘っているかもしれない。そんなふうに考えられるようになったのは、あのときわたしが、心も体もとことん病んだからだと思います。
photography by Melina Hammer
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